▼雅 翼-ギターと天体望遠鏡


俺と周(しゅう)は、小さい頃は本当によく似ていた。

母親が面白がって髪型も服も全部同じにしていたせいで、昔の写真を見たら親戚でも見分けがつかないらしい。

でも俺からしたら、区別は明白だ。

いつも控えめに微笑んでピースしているのが周で、くしゃくしゃの顔で歯を見せて笑っているのが俺。

外見がそっくりだって、中身はまるで違う。

それでも仲は良い方だったと思う。

習い事の帰りに知らない道を探検したり、裏山に秘密基地を作ったり、周が俺の友達に混じってサッカーをすることもあれば、俺が周の友達に混じってゲームで対戦することもあった。

 

ただ中学に上がったあたりから少しずつ、一緒に行動することは減っていった。

星が好きだった周は天文部に入り、同時に生徒会役員にも選ばれて毎日忙しく過ごしているみたいだった。

かたや俺は軽音部にスカウトされてバンドを始め、先輩の勧めで初めて髪を染めた。

似ていないね、と周りからよく言われるようになったのもこの頃からだ。

制服も着崩していわゆる非行生徒まがいの格好をしていた俺に、よく教師連中は見るからに品行方正な周を引き合いに出して“あいつはあんなに出来がいいのに”という話を振って窘めた。

不思議と嫌な気分はしなかったのは、兄バカというか、何だかんだ周が褒められているのは妙に誇らしかったからだと思う。

似ていなくても周が俺の片割れだという意識は常にあったし、趣味の違いや思春期に差し掛かったことで家にいても昔ほど喋ることはなかったけど、周が自慢の弟であることは変わらなかった。

 

それが崩れたのは、周に初めて彼女が出来た時だった。

つやつやの黒髪をハーフアップにした、色白で大人しそうな玲香という名前のその子は周にすごく似合っていたけど、何故か俺は喜ぶ両親みたいに素直におめでとう、とは言えなかった。

周が誰かのものになってしまうことが悔しかった。

周と一緒に帰るのも、休みの日に買い物に行くのも俺だったのに、その役割が段々彼女にシフトしていくのがたまらなかった。

だから、当てつけのように俺もすぐに彼女を作った。

ガキみたいだと我ながら思う。とんだ弟バカだ。

でも、その苛立ちとか寂しさとかほんの少しのやきもちとか、そういうのがぐちゃぐちゃに混ざりあって持て余していた感情を紛らわせる方法が、俺にはそれしか思いつかなかった。

 

 

当時の俺の初めての彼女、美緒とは小さなライブハウスで知り合った。

先輩の友達でひとつ年上の彼女はメイクが映えるはっきりした顔立ちの美人で、服装も雰囲気も華やかで大人びていた。

そんな美緒が初めて部屋に遊びに来た日の夜。

 

「零 れいのカノジョ、チャラチャラしてるし遊んでそうだよね。浮気とか大丈夫?」

 

夕飯を食べ終え、二階にあるそれぞれの部屋に帰ろうとしていた時だった。

一瞬、何を言われたのか分からなかった。それを口にしたのが周であることも。

聞いたこともないような、冷たく突き放した口調。

軽く俺を睨みつける、不機嫌そうな眼鏡の奥の瞳。

俺が遊ばれているかもしれない、という忠告には思えなかった。明らかに、周は美緒に悪意を持っている。

ようやくそこまで理解して、一気に頭が沸騰した。

先に彼女を作ったのは周のくせに、俺が彼女作ったら文句言うのかよ、と思ったら勝手に口が動いていた。

 

「周こそ、あんないかにも真面目そうな地味な女と付き合ってつまんなくねえの?」

 

吐き出された言葉は、思っていたよりずっと強い棘を纏っていた。

それに面食らって慌てて唇を引き結んだ俺を見る周の視線が鋭さを増す。

そういえば、周の怒った顔なんて久しぶりだ。ある程度の歳になってからは、喧嘩なんてしなくなっていたから。

それがどうして、こんなことで。

あまり話さなくなったとはいえ、何となくお互いの考えは分かっていると思っていた。

周は俺の片割れで、大事な弟で。

でも、周にとっての俺はもう、そうじゃないのだろうか。

周の気持ちが分からない。そんな風に感じたのは初めてだった。

やがて、無言で立ち尽くす俺の前をすり抜けて、周は部屋に入るなり乱暴に音を立てて扉を閉めた。

 

俺と周はついに、ろくに口も聞かなくなった。

顔を合わせても挨拶すらせず、目が合えばすぐに逸らす。

しばらくそんな状態が続くと、やがて見かねた母親からいい加減きちんと話し合うよう言われ、いつもは並んで座る食卓テーブルに向かい合って座らされた。

話し合おうと言っても何が原因かなんて母親の前で言えるはずがない。そもそも俺自身まったく気持ちの整理がついていないのに、上手く説明出来るはずもない。

 

「ごめん、言いすぎた」

 

どうしたもんか、と黙っていると、先に口を開いたのは周だった。

思えばこういう時、要領がいいのも昔からだ。すぐにつまらない意地を張ってしまう俺と違って、周はいつも切り替えが早かった。

その上、割を食って俺が余分に怒られると、後でこっそり戸棚からくすねてきた飴玉をポケットから出して慰めてくれたりもした。

しっかりしていて優しい、自慢の弟。

何年も経ったけど、根っこにはきっとあの頃と同じ部分も残っているはずだ。

そう感じた途端、ふつふつと煮えたままだった胸の奥が、少しづつ波が引くように落ち着いていく。

 

「ああ、俺も悪かったよ」

 

完全にわだかまりがなくなったと言えば、もちろん嘘になる。ただ言いすぎたのは事実だったから、俺にしては珍しいくらい素直に謝ることが出来た。

 

「はい、じゃあもうおしまい。これで仲直りね!」

 

頭をくしゃくしゃに撫でられながらそう念を押すように母親に言われ、俺たちは苦笑しながら頷くしかなかった。

 

それからの俺たちは表面上は今まで通り、年頃の男兄弟の距離感として正しい状態に戻ったのかもしれない。

お互いの彼女についてどうこう言うこともなくなった。

それでも、周が彼女とデートに行くことを母親に告げている場面を見たりすると無性に気まずかった。

彼女が見ているのはきっと、俺の知らない周だ。

彼女といる時の周は、どんな風に手を繋いだり、キスをしたりするんだろう。

俺の意志に関係なく、勝手に頭の中をそんな考えが支配していく。

胸がむかむかして、吐き気がする。気分が悪い。

どうして、俺は周の恋愛事情にこんなに執着してしまうのか。

知りたい、知りたくない、知りたい。

何度自問自答しようとしてもその理由が分からない。

些細なやきもち程度だったものが、双子とはいえ普通の同性の兄弟に対して感じるには明らかに度が過ぎている。

 

これじゃあ、これじゃまるで、俺が周を。

 

馬鹿みたいなことがよぎってゾッとした。どうかしている。

あの日から、周に彼女が出来てから、俺はずっと調子が狂っていた。

こんなんじゃなかったのに。

日増しに酷くなる違和感を振り払うように、美緒と初めてのセックスをした。

周だってきっと、そのうち彼女である玲香と同じことをするだろう。

顔のつくり以外似ていない双子の弟。

俺はどうにかして、どこかで周と繋がっていたかった。

美緒と肌を重ねながらも、周のことが頭の片隅から離れなかった。

 

 

そんな関係が長く続くわけもなく、周が前に予想した通り、美緒は浮気してあっさり俺を振った。

もちろん彼女のことは好きだったからそれなりに落ち込んだし、相変わらず玲香と順調に付き合ってるらしい周の様子を垣間見るたびに気が滅入った。

だけど、そんなことばかりにかまけてもいられない。

中三になり、進路を決める時期がやって来た。

周が玲香と同じ高校を受けると知って、俺も同じ志望校を選んだ。

ふたりの仲をどうこうしようというわけじゃない。

ただ、いよいよ学校が変わったら格段に周との接点がなくなってしまうことに耐えられなかった。

バイトが可能、私服、家から近い。

そういう条件の良さもあって決めたけど、俺の内申点のランクじゃ正直難しい。

バンドにばかり打ち込んで、授業中寝ていたツケがここで返ってくるなんて。

仕方なく、睡眠時間を削って受験勉強にあてることにした。

 

家で起きてるのは俺だけだろう、真夜中。

時計の秒針と、教科書のページをめくる音、噛み殺す欠伸だけで満たされていた部屋のドアがこんこん、と二回鳴った。

 

「零。まだ起きてる?」

 

呼びかけてきたのは周だった。さすがにもう寝ているだろうと思ったのに、問いかける声には眠気も感じさせない。

起きてる、と返せば紺色のパジャマ姿の周が顔を出し、隣に歩み寄って俺のノートの走り書きを教科書と交互に眺めた。

双子なのに字も違う。きっと周のノートはもっと丁寧で読みやすいだろう。

 

「オレの受けるとこ、零の成績じゃ厳しくない?」

 

「うるせえな、分かってるよ」

 

特に苦手なのは英語だった。バンド活動で歌詞を書く時もつい避けてしまう有様で、いいなと思った洋楽も歌詞の和訳が面倒で適当に歌っている。

 

「英語なんて、日本人なんだから苦手でも仕方ないだろって顔してる」

 

図星を言い当てられて顔を上げると、周がにやりと口角を上げて笑った。

小さい頃の写真の中で、いつも静かに控え目に微笑んでいた周の面影はもうだいぶ薄くなった。

悪戯っぽい笑顔は俺と同じ顔のはずなのにやけに大人びていて、気を抜いたら置いていかれそうに思えた。

教科書を手に取り、周が問題の英文をすらすら読み上げていく。

市の英語弁論大会で賞を貰っただけあって、周の発音は滑らかで耳に心地がいい。

あれだけ向き合うことが苦痛だった英文法が自然と頭に入ってくる。

妙にすっきりした気分になったら、ずっと疑問に感じていたことが、不意に口をついて出た。

 

「つーかさ、何であそこ受けんの?周ならもっと上、狙えただろ」

 

言ってから、すぐにしまったと思った。

玲香が行くから。もしそんなことでも言われたら。しばらく落ち着いていたはずの黒いもやもやが胸の真ん中からじわじわ広がっていく。

ぎゅう、とほとんど無意識にスウェットの胸元を握りしめる。

だけど、周の答えは意外なものだった。

 

「……バイト、したいから」

 

「バイト?」

 

初耳だった。周がバイト。何のために。何か欲しいものでもあるんだろうか。

その時、不意に昔のことを思い出した。小学生の頃だ。ショーウィンドウにへばりついて、目をきらきらさせながら周が見つめていたもの。

 

「青い……天体望遠鏡」

 

多分十万くらいはしたんだろう、大きくなったら自分で買うよう両親に言われて明らかに落ち込んだ様子だった周は、帰ってから押入れに閉じこもって膝を抱えて泣いていた。

そうだ、よく覚えている。あの時、初めて俺が周に飴玉を渡したんだ。

 

「覚えてたんだ」

 

驚いて目を丸くする周に、今度は俺の方が精一杯顔をくしゃくしゃにして笑い返してやる。

 

「何年兄貴やってると思ってんだよ、当たり前だろ」

 

「はは……っ、マジかよ……」

 

額に手をあてて目を伏せた周は、ほんの一瞬だけ泣きそうな顔をしたように見えた。

でも次の瞬間には、くしゃりと笑った。

きっと今、俺たちは同じ顔で笑っている。

久しぶりに心が通じた気がした。無性に嬉しくなって、肘で周を小突く。すぐさま同じように周がやり返してくる。

そんなやりとりを繰り返して、最後には頭をくっつけてゲラゲラ声を上げて笑い合った。

 

「俺もバイトしようと思ってんだ。ギター、いつも借り物じゃカッコつかねえからな」

 

「零には、赤いギターが似合うよ。昔から赤、好きだっただろ?」

 

戦隊もののヒーローごっこで、いつも自分が青で零が赤だった。

そう言って懐かしそうに目を細める周に、俺の方が泣きそうになる。

ごっこ遊びなんて、最後にしたのは幼稚園の時だろう。そんなこと、とっくに忘れていると思ってたのに。

目と鼻の奥がツンと熱くなって俯く。

ふわり、上から暖かい手のひらが降ってきて、髪を柔らかくかき混ぜるように撫でた。

これじゃあ、どっちが兄貴だか分からない。

情けなくて恥ずかしくて、でも決して嫌じゃなくて。

しっかりしていて優しい、大切な弟。

そうだ。俺にとっての周はいつだって、そうだった。

 

「……何年弟やってるんだよ。ねえ、零。塾行かないつもりなら、一緒にやる?勉強」

 

「やる」

 

思いもよらない提案に、頭に周の手を乗せたまま二つ返事で顔を上げると、目が合った周はとびきり満足そうに笑った。

 

夕飯が終わると、周が隣の部屋から自分の椅子を運んできて、俺の隣に並んで座る。

もう手狭な学習机で時々肩をぶつけながら勉強するのが習慣になって、夏、秋、冬、と季節が過ぎていった。

相変わらず周と玲香は続いていたけど、お互い受験生なのもあって付き合いは最低限に控えているみたいだった。

部屋で顔を突き合わせて周と勉強するのは、俺だけの特権だ。子どもじみた独占欲ながら、実感するたびに気分が良かった。

そして春、俺は無事に周と同じ高校に入学した。

 

 

顔のつくり以外、まるで似ていない双子。

新しい環境で、俺たちはまたそうやって注目されていた。

周とはクラスが分かれた。玲香は周と同じクラスになり、ふたりが付き合っていることはすぐに噂になった。

俺は俺で、新しい彼女が出来た。栗色のショートボブが似合う同級生の佳菜は、メイクやオシャレが好きな今どきの女の子だった。

玲香と歩く周と廊下ですれ違う時、少しだけ息が詰まる。見ないようにしても視線が吸い寄せられてしまう。

そんな時、俺の袖を引いて笑いかけてくれる佳菜に救われた。

俺もいつまでも、周のことばかり気にしていたら駄目だ。

ちゃんと佳菜のことを見ていなきゃ駄目だ。

授業、バイト、バンド活動、佳菜との付き合い。

ひたすら予定を詰め込んで、目まぐるしい毎日を消化していく中で、俺はどこかで逃げていた。

中学生になって、周と拗れたあの時。振り切ろうとしても頭を支配し続けていた、あの感情。

かさぶたになったまま、消えずに胸の奥に残っている痛み。

 

十七の誕生日、ようやくバイト代でお互いの目標だった真っ赤なギターと青い天体望遠鏡を買って、並べたふたつの前で笑いながら周と抱き合った。

ほんの少し俺より背が伸びた周の背中が思ったより大きくて、わざとふざけて背中を叩きながら、俺は自分の跳ねた鼓動が周に悟られないか必死だった。周はふざけて、わざと強く抱きしめ返してきた。

玲香も、こんな風に抱きしめられているのだろうか。

どうして、そんなことを考えてしまったのか分からない。

周の腕の中にいるのが急に怖くなって、慌てて引き剥がして写真を撮った。

液晶画面の中で歯を見せて笑う俺たちが、仲がいいだけの普通の双子に見えるのを確かめる。

しっかりしていて優しい、大切な弟。

俺にとっての周は、今までも、これからも、そうでなきゃいけないんだ。

思い直して、ひとつ、長めの溜め息を吐いた。

 

 

こんなあやふやで危うい感情は、隠し通していつか忘れて、そのうち大人になったらきっと、全部なかったことになる。

俺はそう信じていた。けれどある日、そんな未来は音を立てて崩れていった。

 

「お前の彼女、佳菜、だっけ。あいつ浮気してるよ……周と」

 

それはクラスメイトの安藤が、いつもの騒々しさとはまるで違う、神妙な顔つきで耳打ちしてきたことだった。

昨日の昼休み、ふたりが自習室でキスしてるところを見た。

いつも自習室でサボっている安藤の目撃証言には、嘘があるとも思えない。

どうして。どうして。どうして。

いくつもの疑問符がぐるぐると頭に踊る。

佳菜とは上手くやってたはずだ。周には玲香がいるはずだ。じゃあ何で、何のために。

みるみる青ざめていく俺を見て、心配そうに差しのべられた安藤の手を振り払いながら席を立つ。

隣のクラスにいた佳菜を人気のない非常階段に呼び出して問いただすと、佳菜は呆気ないくらいあっさり白状した。

 

「だってバンドもバイトも忙しくて、最近の零、全然遊んでくれなかったじゃん。あたし寂しくて、だったら、いっそ零とおんなじ顔の周くんと浮気しちゃえって……」

 

口を尖らせて俯く佳菜に、当然怒りはあった。でもだんだん連絡をマメに取らなくなったのも、いつの間にかバンドを優先していたのも確かに事実だった。

上手くいっていたと思っていたのは俺だけだった。

 

「悪かったとは思ってる。でも、声かけたのはあたしだけど、先にキスしてきたのは周くんだよ?」

 

何も言えずにいた俺に焦ったのか、更に続けられた佳菜の言い訳が、謝ろうと息を吸いこんだ俺の頭を思いっきり殴りつけた。

周が?先に?

俺の片割れ。似ていなくたって、何となくお互いのことは分かる存在。

揺らいだらまた繋がる。見失ったら見つける。

俺にとっての周はそうだった。じゃあ、周にとっての俺は?

周、なんでだ。なんでだよ!

 

「ごめんって、ねえ、零」

 

腕を引っ張りながら涙目で見上げてくる佳菜に告げた台詞は、すっかり色をなくして唇から無機質に転がり落ちた。

 

「ごめん、佳菜。俺も悪かったけど……別れよう」

 

 

周と話がしたい。非常階段を駆け下りて教室に戻る。

家に帰ってからなんて我慢出来ない。時計の秒針さえやけに遅く感じた。

すぐに話したくても、よりによって今日は委員会だった。日が暮れるまで教室でただ座って待つのはさすがに苦痛すぎる。

どんどん人が減っていく廊下を所在なく歩き回っていると、いつの間にか足が周のクラスに向かっていた。

無人の教室の中で、たったひとり座っている生徒がいる。

中学の頃から更に伸びたつややかな黒髪を、ふたつに結った後ろ姿。頬杖をついた白くて華奢な手。

会話したことがないわけじゃない、でも、ふたりきりで話したことはない。

引き戸をゆっくりと開くと、玲香は振り返って目を丸くした。

 

「零くん……どうしたの?」

 

おそらく、玲香は昨日のことを知らない。そうじゃなかったら、こんな冷静に振る舞えるわけがない。

ただいつものように、一緒に帰るために周の帰りを待っている。

周は、どうする気なんだ。何も知らせずに、このまま玲香と付き合っていくつもりなのか。

ーーー俺と佳菜を別れさせておいて?

墨をぶちまけたみたいに、心が一気に黒く染まっていく。

ざわり、と背筋が寒くなる。

駄目だ、このまま引き返せ。本能でそう感じながらも、足は一歩も動かない。

体が、心が、静かにコントロールを失っていく。

 

「周、浮気してるってさ。昨日周が俺の彼女とキスしてるとこ、見たって奴がいたんだ」

 

「……何、それ……」

 

口をついて出た言葉の、あまりに軽薄な響きに目眩がする。

みるみる玲香の顔が暗くなっていくのを眺めながら、俺はどんどん自分が醜く歪んでいくのを止められなかった。

そうだ、ほら、怒ればいい。泣けばいい。周に愛想尽かせばいい。

俺と同じように、周だって彼女と別れればいい。

俺たちは双子なんだから、周だって、俺と同じ気持ちを味わえばいい。

 

「あいつ、サイテーな奴だろ?別れちまえよ。それか、玲香も浮気したらいい。俺なんてどう?ほら、顔だって周とおんなじーーー」

 

ぱしん。

 

乾いた音。衝撃。左頬に走る痛み。目の前にかざされた玲香の白い指先が、その先の華奢な肩が震えていた。

じんじんと熱を持つ左頬に触れる。

糸が切れたように、体の力が抜けていく。

叩かれて当然だ。何をしていたんだろう。俺は、一体何がしたいんだろう。

我に返って呆然と、苛立ちを込めた眼差しで睨みつけてくる玲香を見下ろすことしか出来ない。

 

「いい加減にしてよ、サイテーなのは零くんでしょ?私は浮気なんてしないし、絶対別れないから!」

 

精一杯涙を堪えた顔でそれだけを言い残し、玲香は勢いよくカバンを掴んで教室から走り去っていく。

追いかけることも、それ以上言葉をかけることも出来なかった。

玲香に言われた通りだ。サイテーなのは間違いなく俺の方だ。

酷いことをした。玲香を傷つけたいわけじゃなかったのに。

何故か、美緒のことをぼんやりと思い出した。

中学の頃、初めて美緒を家に呼んだ日、不機嫌そうに文句を言ってきた周の冷たい瞳。

美緒にあからさまな悪意を向けてきたあの日の周が、今の俺と重なる。

俺は玲香が羨ましかった。周にとって自分より特別な存在が出来たことが寂しくて、周の隣にいられなくなったことが悔しくて。

得体の知れない苦しさと、じくじくと胸を締め付ける痛み。

 

周は、もしかしたら周は。そして俺は、もしかしたら俺は、周を。

 

 

「零……?」

 

突然、後ろから呼びかけてきた声に振り返る。

入口でペンケースとノートを抱えた周が、教室にいる俺を不思議そうに見つめていた。

 

「周……俺、分かんねえんだよ」

 

確かめたい。周の心の中が知りたい。

ずっとばらばらのまま片付かない、俺の心の中が知りたい。

 

「なんで玲香と付き合ってんのに佳菜とキスしたんだよ」

 

俺に歩み寄ろうとした周の足が止まる。

息を飲み、しまった、とでも言いたげに目を逸らす仕草が、たまらなく無性に腹が立った。

 

「…………っ、それは」

 

「分かんねえ、分かんねえよ!」

 

俺は周に駆け寄って、両手で胸ぐらを掴むとそのままロッカーに周の背中を叩きつけた。

がしゃん、と派手な金属音がして、その拍子に周が落としたノートとペンケースが床に散らばる。

間近で見る周の顔。その困惑した目の奥にうっすら映る俺は、鼻の付け根に皺を寄せて、今にも泣きそうな顔をしていた。

 

「中学の時からだ……周が玲香と付き合いだして、美緒が家に来た日に喧嘩して、あれからずっと俺は周の気持ちが分かんなくなったんだよ。ずっとだ!」

 

血が上って爆発しそうな頭の中、散らかる感情をどうにか組み立てて、言葉として吐き出していく。

伝えなければ。全部、今の俺が抱えている全部を周にぶつけなければきっと、俺は後悔するだろうから。

 

「零……」

 

「周は俺の片割れで、大事な弟で。じゃあ、周は、周にとっての俺は……?」

 

つう、と暖かいものが頬を伝う感触。駄目だ、まだだ、まだ泣くな。

掴んだ周のシャツを握り直す。声が震えそうになるのを必死で堪えて、真正面から周を見据える。

 

「おかしいんだよ、俺。周が離れてくのが怖くて、周が玲香と付き合ってんのがたまんなく苦しくて、どうしようもない……ガキみたいで、頭ん中ぐちゃぐちゃで、自分でもわけ分かんねえけど、俺は……俺は、周と……」

 

ついに嗚咽が込み上げてきて声が詰まった。頭がぐらぐらする。

乱れた呼吸を整えたくて、仕切り直すためにきつく目を瞑った。

ひく、と喉が鳴った、次の瞬間。

強い力で後頭部を引き寄せられて、酸素を求めて開けた唇が塞がれる。

目を開けた視界いっぱいに、周の顔があった。

まつ毛がぶつかりそうな距離。周とキスしている、と理解するまでに何秒かかかった。

 

「……ッ、待っ、周……!」

 

慌てて顔を引き離しながら懸命に継ごうとした息も、言葉も、また唇ごと奪われる。

キスの間に体を反転させられ、今度は俺がロッカーに背中を預けていた。胸ぐらを掴んでいたはずの両手も、いつの間にか手首を掴まれてロッカーに縫い付けられている。

冷たい金属の感触も、注がれる熱に溶かされて消えていく。

繰り返し、繰り返し、柔らかい唇が、舌先が触れて、離れかけてまた重なって。

双子の弟と教室でキスしている。有り得ない、信じられない状況なのに、嫌だ、という気持ちは全く湧いてこなかった。

ふたり分の息遣いと、湿った音だけが静かな教室に響く。

やがてゆっくりと唇を離した周は、そのまま俺の肩に額を押し付けて、消え入りそうな声で話し始めた。

 

「……あの子から声をかけられた時、思ったんだ。オレが手を出したら、零と別れてくれるんじゃないかって。だから、キスした。零が触れた唇だから、オレも触れたいと思った」

 

俺の手首を握りしめていた周の手が力なく下がっていく。逆に掴み返した俺の手は、小刻みに震えていた。

 

「……何だよ、それ……何だよ……っ」

 

それじゃあ、それじゃまるで、周が、週が俺を。

 

顔を上げた周は、何かを決意したような眼差しで俺を射抜く。

ーーーああ、そうか。これが答えだ。

 

「…………零が好きだ、ずっと、ずっと前からオレは零が好きだった」

 

俺を見つめたまま潤んだ周の瞳から、次から次へと涙が溢れて頬を濡らしていく。

分からないと思っていた、どんなに知りたくても見えなかった周の心の奥。

ばらばらになったピースが嵌っていくような感覚だった。記憶が巻き戻って、靄が晴れていく。

 

「中学に、上がる前くらいからだ。オレの零に対する感情が普通の、兄弟に対してのものじゃないって気付いた。気のせいだと思いたくて彼女も作った……でも駄目だった」

 

「周……」

 

「玲香のこと、レイ、って呼んでたんだ。キスする時も、セックスする時も、ずっと頭の中にいたのは零だった……気持ち悪くてごめん。彼女に嫉妬して、ごめん。零はオレを大事な弟だと思ってくれてるのに、オレはこんなに……零を好きになって、ごめん……」

 

大丈夫だ。知ってるよ、周。知ってる、俺はその感情を知っている。

胸の痛み。嫉妬。苦しさ。切なさ。

今の関係を壊れてしまうかもしれない怖さ、壊したくない怖さ。

どんなに逃げたくても逃げられなかった、本当の想い。

 

ごめん、ごめん、ごめん。 腕で顔を覆いながら掠れた声で謝り続ける周の、暖かい背中を抱きしめる。びくり、と緊張した肩をそっと撫でた。

愛しい。その言葉の意味を、周の体温が教えてくれる。

 

「……俺もだよ、周。俺もずっと、ずっと……周が好きだ」

 

嗚咽を堪えて、懸命に声を、言葉を紡ぐ。

気持ち悪いわけがない。嫌なわけがない。だってそれは、俺自身が周に抱き続けてたものだから。

もう、俺は逃げない。自分の想いからも、周の想いからも。

向き合った、涙で濡れたふたつの泣き顔。ああ、こんな風に泣いたら結局は同じ顔だ。

 

「嘘……、みたいだ、零……ほんとに…………?」

 

子どもみたいに不安そうに眉を下げた周の頭を力任せにぐしゃぐしゃかき混ぜるうちに、また涙が次から次から溢れてきて視界が滲んでいく。

 

「嘘なんかつくかよ、馬鹿……!」

 

泣きじゃくって震えた情けない声で頬をつねってやると、周は泣き腫らした目を細めて心底嬉しそうに笑ってみせた。

 

 

 

周は俺の片割れ。しっかりしていて優しい、自慢の弟。

特別な存在で、愛しくて仕方ない存在で。

 

「卒業したら、家を出て一緒に住もう」

 

指を絡めて交わした約束。不安は尽きない。未来のことなんて分からない。だけどもう、俺たちは互いの気持ちだけは見失わない。

顔のつくり以外似ていない双子。

真っ赤なギターを弾く俺と、青い天体望遠鏡で星を見る周。

趣味も得意なことも苦手なことも違う俺たちが、ようやく辿り着いた答え。

 

「……好きだよ、零」

 

部屋の中で、ふたりきりの時。うっすら頬を染めた周が、控えめに告げてくる。

返事の代わりに、触れるだけのキスをひとつ。

そうして俺たちは、子どもの頃と同じように額をくっつけて笑い合う。