▼三船鳩-双夏

 紫陽花、朝顔、百日紅などの草木が、一斉に空を目指していた。

 萌え出でた緑は青々と広がり、湿りけを含んだ空気に黒揚羽が一匹、二匹とまるで泳ぐように飛んでいく。蜜蜂の羽音と、風にそよぐ樫の葉擦れ。明るい日差しを受けて輝く、オシロイバナの茂み。庭のあらゆる命が、その存在を誇示しているようだ。

 僕は、わずかに開け放たれた障子の隙間から、その夏の光景を見つめていた。

 自らの手首は白く、庭の青とは違う蒼い血管が、筋となって見える。痩せ細った自身の腕を持ち上げて、僕は光に翳した。

 

 夏は最も残酷な季節だ。

 日差しがあらゆるものを際立たせる。成長と衰退、覚醒と昏睡、生と死。

 曽祖父の代から続くこの家の庭も、八月の眩さを受けて目まぐるしく変わっていく。恐らくそれは、兄にはわからないものだ。双子の兄は、この庭の変化など気づきもしないだろうから。

 恐らく僕だけが、昨日庭に忍び込んできた夏揚羽蝶と、今日縁側で翅を休めている夏揚羽蝶が同じものだとわかっている。それは僕だけに許された小さな秘密だった。

 けれど、その秘め事すら、死にゆく僕には一時の慰めにしかならない。

 

 長い長い一日の終わりに、ヒグラシが切なげな声を響かせる。僕は庭を行き来するトンボを数えるのを止めた。誰かがやってくるのが、床の軋む音でわかった。

 「おい、入るぞ」

 双子の兄がずかずかと部屋に入ってくる。僕は横たわったまま、庭を見つめ続けていた。

 「この間借りた本を返しに来た。中々いい小説だったよ」

 「読めたんだ。忙しいって言ってたから、もっと時間がかかるかと思った」

 「なんとか」

 僕は漸く寝返りをうって、野球帽を被ったままの兄を見た。

 彼とは双子だ。両親が言うのだから間違いない。けれどこれほど似ても似つかない一卵性双生児もいないだろう。僕は兄の、良く日に焼けた肌を眺めて思う。

 兄は畳にあぐらをかくと、蚊取り線香に火をつけた。

 線香の煙が白く棚引いて、僕の上を通り過ぎ、庭へと出ていく。兄はどこから持ってきたのか、団扇で僕をゆっくり扇いだ。

 「別にいいよ、暑くないから」

 苦笑して言うと、兄は少し驚いた表情を見せた後、照れ笑いを浮かべた。

 「あぁ、この部屋は涼しいからな」

 その顔は、もうしばらく見ていない自分自身の顔と似ているのだろうか。もし似ているとするのならば、恐ろしく皮肉な話だと思う。

 医者からは来年の桜を見れるかどうかも怪しいと言われている僕。今、目の前で、健康的な白い歯を見せて笑う兄。二人は確かに同時に生まれ、そして絶望的に違っていた。

 僕は兄から視線を外し、再び外を見る。

 夕暮れは音もなく夜を招き、空は既に濃紺色へと変わりつつあった。その庭の一番隅、陽が最後まであたっていた一角に、小さな花が星のように咲いていた。

 あの花は知っている。雑草の一種で、気を抜くとずっと生え広がっていくのだと、誰かがぼやいていた。それなのに、あんなに光り輝くような花をつける。

 「あれは……なんて名前だったっけ。好きな花なんだ。なんだか特徴的な名前だった気がするけど」

 僕の呟きに、兄も身を乗り出して庭を眺める。兄は僕が指差した辺りを見て一瞬息を呑んだようだったが、すぐに人懐こい笑みを浮かべた。

 「……あぁ、オキザリス。確かに特徴的だ」

 「まるで置き去りにするような名前だね。あんなにかわいいのに」

 僕が言うと、兄も吹き出した。

 「同じことを考えていた。やっぱり双子だな」

 「誰だって連想するよ、それは」

 笑って返す僕の胸の内を、兄は知っているのだろうか。

 『やっぱり双子だ』という言葉の残酷さを、兄は考えたことがあるのだろうか……。

 

 僕は兄の影だ、と天井を眺めながら思う。いや、ひょっとすると影にすらなれないのかもしれない。

 もう閉めてしまった障子と縁側の向こう側。庭の片隅のオキザリス。置き去りを連想する名前。人生を進む兄。置いていかれる僕。

 けれどもそれは僕にとって、祈りに似ていた。自分が生きることのできない人生を、彼は歩むのだから。置き去りにされても、それは進む人がいるという事実の証なのだから。

 目を閉じると、可憐な黄色い花弁が眼裏(まなうら)に浮かんだ。夏の日を愛おしむように咲く、小さく美しい花だった。

 

 

*****

 

 

 ──あれは、なんて名前だったっけ。

 そう聞かれた時、咄嗟に息を呑んでしまった。庭の隅に咲く小さな花を指差して、弟は好きな花だと言った。だから和名では無く、学名を答えた。置き去りに良く似た名前だ。

 俺は布団から起き上がり、そっと明かりをつけた。

 本棚の植物辞典を開く。『酢漿草』とも呼ばれるその草の頁に、和名も書いてあった。

 カタバミ。

 漢字に書くと、片喰となる。なぜそんな漢字を書くのか、植物辞典には書かれていない。それでもその漢字から連想する禍々しさに、俺は身震いした。

 不吉な名前の花を、弟は好きだと言う。学名のオキザリスでさえあまりいい印象を与えない。それなのに。

 日に日にやつれていく弟の姿を思い出し、そして風邪一つひかない自分を見て、唇を噛む。俺たちを象徴するかのような名前だ。俺は弟の魂を喰らい、すくすくと成長する。そのことに文句も言わず、弟は黙って死の床に横たわっている……。

 俺は少し乱暴に植物辞典を閉じて、再び横になった。

 目蓋の裏に浮かぶのは、弟の静かな微笑み。そしてカタバミの花。

 片喰とは良く言ったものだと思う。片方を喰らい、一際可憐な花を咲かせるのだろうか。あんな小さな存在でも、理不尽な生と死を巡っているのだろうか。俺にはどうしても理解できない。

 双子であるならば、全てを等分に分け隔てるべきだ。それなのに、俺は友人や学校、野球や旅行の魅力に抗えない。誰かと話している時、どこか素晴らしい場所に行っている時、弟のことを忘れてしまっている。そのことに気づいて、俺は愕然とした。

 俺は、俺の人生から、弟を、死を、締め出そうとしている。

 

 強く目を閉じたが、一筋の涙が頬を伝った。

 弟を喰らって、俺はどこまで行けばいいのだろう。どれほど行けば、弟と同じ場所に立てるのだろう。

 カタバミの小さな花を見かける度に、俺はきっと弟の微笑みを思い出す。それは救いだ。一人で生きているような顔をする俺に、寄り添う存在がいたことを、痛みと共に思い出させてくれる。

 小さな花片を思い描きながら、俺は静かに眠りへと滑り落ちていく。夏の夜に瞬き消える、金の星のような花だった。