▼マライヤ-双子の弟に関する諸問題


――双子といったってお兄ちゃんなんだから。

 

母の口癖でハニが双子の兄ということは知れたのだが、

肝心の弟を見かけないので、ハニは兄弟があるという実感を持てずにいた。

 

部屋はひとりで使っているし、それに父母の寝室と父の書斎、

物置にしている部屋を足せば、余っている部屋などひとつもない。

 

ただ一度、廊下に転がっていた黒い籐で編んだ鞠のようなものを

踏んでしまったことがあった。

 

めき、と、かぼそい骨格の折れる音を聞きつけた母は、

 

「お兄ちゃんなのになんてことするの!」

 

と、顔面の皮が天井へ向けて引き剥がされるような、

物凄い形相でハニを叱ったのだった。

 

とすると、その鞠がハニの双子の弟ということになるのかもしれない。

 

しかし母の胎内で、ハニか母の血の塊がああいう具合に凝り固まったとか、

そういう具合であの無機物(?)がハニと共に発生したとして、

それを兄弟として扱ったりするものだろうか。

 

いや現にその通り扱っているのだから、

子供であるハニも、それには従わなければならない。

 

ただハニは何も、すべてにおいて母に従おうというのではない。

 

問題は母がひとりの子を産めばひとりの子で、

ふたりの子を産めば双子となるということだ。

 

この双子問題はどうしたって母の胎に根を発している。

 

しかしそれに対してなにか母親として産み落とした物に対する執念とか、

宗教的な意味合いとかがあったとすれば、

そんな大事な弟を――自分では動けないはずの物体を、

廊下に転がしておくのは不自然である。

 

せめて何か小箱のようなものにしまっておくとか、

それが可哀想だというのなら、せめてサイドボードの観葉植物の

隣にでも置いておくべきであって、なぜ廊下に転がしてあったのだろう。

 

その上、ハニが初めて弟を――その黒い毬を見たのは、

12歳の誕生日を祝ったその翌日なのだ。

 

それまで弟はどこにいたというのか。

 

母は未だに弟を踏んだことを怒っていて、

弟について何か尋ねる気にはなれない。

 

ハニは以上のことを思い返し考えると、ベッドから跳ね起きて暗い廊下に出た。

家の廊下には明かり取りがないので、夏の昼下がりでもじっとりと暗いのだ。

 

双子の弟は未だ廊下に放り出してある。

 

ハニはその編み目に指を突っ込んで、黒い鞠を拾い上げた。

あらためて近くで見ると、薄くニスを塗ってあるようで、

暗い廊下のわずかな光を拾って鈍く光っている。

しかし感触はやはり籐で、毛羽立ってざらざらしていた。

 

ハニが踏んだ形跡などは、消えてなくなっている。

強く押すと折れ目が見えるのかもしれなかったが、

そんなことをする勇気はハニにはなかった。

 

ハニはギシギシ鳴る廊下を歩き、思い切って父の書斎のドアをノックした。

 

「入りなさい」

 

重たいドアを開くと、すぐ目の前にある黒い大きな机には、

まるで例の弟のような諸物、あらゆるものが置いてあった。

 

牡蛎の殻を何層も重ねて作ったような、ごつごつした城の置き物、

 

薄い緑色の焼き物で出来た、優しい形の空洞の目を持つ聖母マリア。

 

幾何学模様をもつ寄木細工のペン立てと、そこに何本も入れられた

先の削られていない新品の青い鉛筆。

 

そして虹色のセルロイドを重ねて出来た地球儀。

しかしいくら目を凝らして眺めても、

海岸線や国境を見分けることが出来なかった――。

 

父はそういった、ハニの手にある双子の弟じみた諸物のあるじとして、

大きな椅子に深く座って、あのドアよりも重そうな本を開いていた。

 

父はカーテンも閉めず強烈な西日に照らされていて、

まるで光を背負った黒い影だった。

 

ハニが装飾品の数々をつぶさに見ることが出来たのは、

それらが大きな父の影に隠れていたからで、

いちど父の方に目をやると、西日に目をやられて何もわからなくなった。

 

緑色の残光にくらくらしていると、父が低い声で言った。

 

「お前がここに来るなんて珍しいじゃないか」

 

父は大きな本を開いたまま、

ページの隙間に金色のチカチカする栞を差し込んだ。

 

「子供は多かれ少なかれ秘密を隠し持っているものだろう。

 いらぬ腹を探られたくないものだから、

 自分から親に話しかけたりはしないものだ。

 別にお前を責めているわけではないよ。私だってそうだった」

 

ハニは父の言うような秘密は持っていなかったが、

父が示した共感をはねのけるのは、存在しない罪を認めるよりも

不利な事だと思えたので、西日から目を落として曖昧に頷いて見せた。

 

そうして父の机の上に、ハニの弟とされる黒いボールをそうっと置いて、

おそるおそる父の表情を伺った。

 

父の顔はやはり逆光でうまく見えなかった。

ただ白髪混じりの毛髪と、眉毛、口ひげ、それにべっ甲の眼鏡が、

西日にきらきらと光っていた。

突き出た腹の上で、伸びたワイシャツの皺が浅い陰影を描いていた。

 

「お前は弟をそんなふうに扱うんだな」

 

ハニを試すような声色で、父は言った。

 

「兄としての振る舞いはそれで良いとお前は思っているんだな」

 

いちどページの隙間に挟んだ金色の栞を、

またつまみ上げて、立てたり寝かしたりしながら、

父は大きな鼻息をついた。

 

「椅子か何かに座らせた方が良かったでしょうか」

 

ハニがおずおずとそう尋ねると、父はハッと笑った。

 

「椅子か何か? 座らせるときた! そしたら私は扇でもって、

 仰いでやればよろしいのかな? ええ?」

 

そう言いながらタンと音を立てて、また栞をページの隙間に突き立てた。

 

「なるほどお前は母さんに叱られて弟を立てなくてはならなくなった。

 そのためにこの書斎を、ついては父親を利用しようというわけだ。

 

 何故自分ひとりで面倒を見るという発想がお前にはないんだ。

 どうして今までないがしろにしてきた弟のために

 その父親を利用するのか?

 そうすれば母さんの怒りが収まるとでも思ったのか?」

 

父は鳩のように首を振りながらまくし立てた。

 

「言っておくがね、そんな卑劣な方法で人の怒りを鎮める事が、

 もし出来たとして、そういうときは必ず他の人間の怒りと

 たちまち入れ替わることになるのだ。

 

 それとも母さんよりも私の方が御し易いとでも思ったのかね。

 この父親なら多少腹を立てさせておいても、

 あれほどうるさくはしないだろう、という魂胆か。

 

 確かにそれは事実だ。私はあれほど喚き立てたりはせんだろう。

 なるほど、そういう知恵を回したわけだ!」

 

父の濡れた大きな歯が、西日に輪郭を現した。

 

「お父さん、それは大きな誤解です」

 

ハニは慌てて、聖母マリアの隣の双子の弟を拾い上げた。

 

「本当に、どう扱えばいいのか見当がつかないのです。

 床に置くことも考えましたが、廊下で彼を踏んでしまって、

 お父さんも知っての通りお母さんは今も怒っています。

 どこに彼を置けばお父さんは納得するのですか?」

 

「私が君の立場なら、聖母像の隣に転がしたりはしないがね」

 

父はくちびるを歪めて、西日に光る口ひげを擦り合わせた。

 

「お前に悪意が無いことは分かったよ、そういうことにしておこう。

 実際お前は自分の弟の上も下も区別がつかないのだし、

 その結果その区別を弟に躾けることもしなかったわけだ。

 

 はっきり言っておくが、それを両親の責任と言うのならお門違いだ。

 私もあれもお前ら双子ともに平等に愛情を注いできた。

 結果、お前はどっちが足でどっちが頭かを自覚するに至り、

 しかし弟の方はそうはならなかった。

 

 となると、弟にあってお前にはない障害はなんだ。

 何が弟の躾を邪魔していると思う?」

 

その先を、父は言ってはくれなかった。

時計の針さえ進むことが許されないような硬直した空間で、

ハニは窓外の西日と共に固まっていた。

 

しかしいつまでも止まった時の中にいるわけにはいかない。

苦い薬をいつまでも舌に乗せていても仕方がないのだ。

たとえ一滴の水さえ無かったとしても、飲み込むほかはない。

とうとうハニは口にした。

 

「それは僕です。僕という兄がいることです」

 

父はその大きな体が萎んで無くなってしまうかと思うほど、深いため息をついた。

 

「そうだ。お前が弟に覆い被さって、黒い影となって、

 何もかも聞こえなくしてしまったのだ。

 母親の教えも父の戒めも、何もかもすっぽり覆い隠してしまった」

 

父は忌々しそうに、岩のように固そうなくちびるを噛んだ。

手を挙げて、その挙げた手を振り下ろして、

何か怒鳴ろうとしたのだろうが、

少し間があって、思い直したように手を膝元に下ろした。

そうして、少しだけ優しい声色で話し始めた。

 

「そうだな、何もお前だけのせいだとは言わんよ。

 お前も子供なのだから、自分自身の世話もしなくちゃならん。

 成長をしなくてはならなかった。

 弟が視界に入らなかったのも仕方のないところがある。

 植物だって陰の草花など気にせずに、

 葉をいっぱいに広げて陽を浴びるものだ。

 

 だがお前は神が自らに似せて作られた人間なのだから、

 隣人を思いやる優しさを持てるはずなんだ。

 双子の弟なんていうのは、世界でもっとも近い隣人だろう。

 お前が教わったことは、弟にも教えてやらんといかん。

 そうして、教えてやるには――」

 

父ははじめ大きな腹を机の方へ向けていたのだが、

椅子を鳴らして身体ごとこちらへ向き直った。

西日に照らされていた横顔は消え、父はひとつの影になった。

 

「日が暮れるまででいい。ふたりで外で遊んできなさい」

 

ハニは巨大な影に命じられた通りに、双子の弟である黒い鞠を抱え、

サンダルを履いて外へ出た。

 

ぬるま湯の中を泳ぐような湿度の高い空気は、

弟の黒い骨格をすり抜けて、腕を汗ばませた。

 

ハニはラグビーの選手が腕の甲を見せてボールを持つように、

双子の弟を抱きかかえていた。

風で飛ばされでもしたらことだから、

指先にぶら下げるようなことは出来なかったのだ。

 

この時間帯なら、近所の神社で誰かが遊んでいても不思議ではない。

近所では遊び仲間のグループがふたつあって、

互いに遊び場を確保しながら牽制し合っていたのだが、

ハニは学校でうまく立ち回っているつもりでいて、

そのどちらとも忌憚なく遊ぶことができた。

 

神社の敷地外の道路にある、大きな鳥居をくぐる頃には、

彼らの賑やかに遊ぶ声が聞こえてきた。

今日遊び場を確保したのは、少し乱暴な遊びをする方のグループらしい。

石段の脇には自転車が並んでいた。

 

そこを昇って杉の落ち葉を踏んだところで、すぐ声をかけられた。

リーダー格の子がハニの名を呼ぶと、みんないっときにその遊びを――

外から見ているだけでは、わめいて走り回っているようにしか見えない、

日々新しくなるその遊びをやめて、こちらへ走り寄ってきた。

 

「おい、何持っとるんそれ」

 

弟を抱えたまま、遊びに参加するのは無理な話だろう。

しかし彼らと顔を合わせて、遊びに参加しないというのも、

つき合いの上からも、ハニの衝動からも許されるものではない。

 

照れくささの中でハニはそこまで考えた。

 

「いや、なんか親に持たされてん」

 

「意味分からんし」

 

細い顔をした、どこかずる賢いところがある子が馬鹿にするように言った。

彼は複数のグループを掛け持ちしているハニを内心良くは思っていないのだ。

しかしいちどそれを口に出したときに、リーダー格の子がこう言った。

 

「そんなんこいつの勝手やん。

 そこどうこう言うのアホらしないか。ちっちゃいわ」

 

そういう経緯で、ハニのグループ掛け持ちは公式に認められることになったのだ。

 

それはともかく、今は弟をどうにかしなければならない。

ハニは苦笑いをしながら、細い顔の子に答えた。

 

「俺も意味わからんねん。ウザいわ」

 

ハニは指を弟の骨格の隙間に入れ、上に向けてぐるぐると振り回した。

親から押しつけられたつまらないガラクタを、

大事にするような人間だと思われたくなかったからだ。

 

「置いとったらええやんけ」

 

別の太った子が、もたれ掛かっている石灯籠を手のひらで叩いた。

その石灯籠の空洞は、ちょうど弟が収まるくらいの大きさで、

隣にある公衆トイレの縁とか、マメツゲの灌木なんかに置くよりは、

よほど収まりがいいように思われたので、ハニは彼の示すとおり、

石灯籠の薄暗い穴ぐらに、弟を何気ないふうにそうっと収めた。

 

そうして弟のことはすっかりその薄暗い場所に任せて、

ハニはルールの変わったいつもの遊びに、全身で興じることが出来た。

 

しばらく走り回り、叫び回っていると、

みんなはそのうちに疲れてきたらしかった。

 

「上行こうや、上」

 

蒸し暑い日も本堂の中は涼しいし、

座ることも、横になることさえできた。

 

ハニは後から遊びに参加したので、まだまだ力が有り余っている。

石灯籠から弟を指先で抜き取って、先に行った仲間を追い越し、

長い石段をぐんぐんと昇った。

 

すると、リーダー格の子が追いかけてきて競争になり、

ハニはギリギリの所で負けてしまった。

 

「アカン、速いわ」

 

「ちゃうわ、お前が遅いんやんけ」

 

彼はそう言ったが、その声色はどこかいたわるようなところがあった。

ハニも彼も、同じ事を思っていたに違いない。

ハニが競争に負けたのは、邪魔な弟を抱えていたからなのだ。

はなからフェアな勝負ではなかったのだ。

 

といってもこういう自然発生的な競争は、

2、3分もすれば忘れてしまうものであって、

しかし忘れてしまうものだからこそ、

そこで発生した諸事情が、後々のちょっとした寂しい敗北や、

すれ違いに影響するていのものだった。

 

渦中にいるハニたちにはそれと判断できないわずかなひずみとして。

しかし、それは確かに影響していたのだ。

 

太った子と顔の細い子がゲーム機を取り出した。

その場には五人いたのだが、ゲーム機が2台あれば、

それをのぞき込んだり、クラスメイトや先生の噂話をしながら、

ゆっくり身体をほぐすことが出来た。

 

休むといっても、じっとしてはいない。

境内の敷き砂利で絵を描いてみたり、

靴を脱いで本堂の椅子に上り、手摺りの上を歩いてみたりする。

 

ハニは弟を椅子の隅の方、賽銭箱の隣あたりに転がしておいて、

本堂の椅子の縁に片腕をもたせかけ、

細い顔の子のゲーム機を覗き込んでいた。

 

気付けば、腕に深い木目のあとがついている。

 

「ちょっとトイレ行ってくるわ」

 

「おん」

 

「おん」

 

ハニは弟を本堂の隅に転がしたまま、

長い石段を降りて公衆トイレに向かった。

 

用を済ませて境内へ戻ると、ハニはとんでもないものを目にした。

 

ハニの双子の弟を、ふたりの子が蹴り回してして遊んでいる!

 

境内の隅の物置場の、錆びたドラム缶に当てればゴールらしい。

ざあっと血の気の引く音が確かに聞こえた。

 

「何しょんねんお前ら!」

 

太った子と、背の高い子が、こちらを向いてにやにや笑いながら、

籐で編まれた黒い鞠を蹴り回している。

 

「それ返せや!」

 

ハニはふたりの間に走り寄った。

自然、ボールの蹴り合いに割って入ることになった。

 

リーダー格の子は本堂の柱に手をついて、

その光景を無表情で眺めている。

 

「返せや!」

「取ってみいやほら」

 

ふたりとも、スズメバチより邪悪な顔に見えた。

ハニは背の高い子に肩で体当たりをして、細い顔の子のすねを蹴った。

その股下を双子の弟がくぐる。

 

それを引き寄せようとして足を伸ばすと、つま先が当たって、

かえって遠くに蹴り飛ばしてしまった。

 

それを捕まえようと、

背の高い子がハニの体当たりでふらついたまま足を伸ばした。

 

とても嫌な音がした。

 

彼は敷き砂利に足を取られて、スライディングをするように、

砂利や杉の落ち葉を跳ね上げながら、盛大にすっ転んだ。

 

その転んだ足の下に、ハニの弟がいたのだ。

 

彼の靴底の広い大きなスニーカーは、

ハニの小さい弟を粉みじんに踏み砕いてしまった。

 

砕けた黒い籐は、暗くなってきた境内で敷砂利と杉の落ち葉に混じった。

彼の転んだ轍に沿って、地面が暗くなった。

 

「アホ! アホ! どないしょんねんコラ!」

 

まるでクッキーみたいにバラバラになった弟を、

ハニはなんとか寄せ集めようとした。

 

しかし手のひらにちくちくと刺さる杉の落ち葉が目立つばかりで、

弟の破片はもはや敷き砂利に差す西日が作る影に過ぎなかった。

 

「お前殺すぞ!」

 

ハニは立ち上がると、背の高い子の襟首を思い切り掴んだ。

力では負けないつもりだし、負けるかどうかの問題でもない。

 

彼は口をとがらせてハニを見下ろした。

 

「いや、お前がぶつかってきたんやんけ……」

 

「お前らが蹴っとんたんやろ最初によ! そのせいやろが!」

 

ハニが叫びながら彼のシャツを引きちぎらんばかりに引き寄せると、

彼の青ざめた顔は死体のようにぐらぐら揺れた。

 

それを遠目に眺めていた顔の細い子が、

すねの砂埃を払いながらおずおずと口を挟んだ。

 

「もう遅いで。もう明日にしようや。帰らなあかんし」

 

「俺も帰らなあかんねん。でもこれ、のうなってしもたやんけ……!」

 

次の言葉を継ぐ前に、背中をぽんぽんと叩かれた。

リーダー格の子だった。

 

「こないなってもたもん、しゃあないやん。

 そらキレるやろけど、キレてもどうもならんやろ。

 俺ら全員、もう帰らなあかんし。

 帰ってお前のお母さんに説明せなしゃあないやん」

 

そう言うと、鼻先で背の高い子を示した。

 

「あいつに踏まれたって、言うたらそんなに怒られへんやろ、な」

 

もう2度、背中を叩かれて、そうしたら何も言えなくなった。

 

「俺ら、帰るから」

 

本堂でゲームをしていた太った子が小走りで3人に寄っていった。

そうしてちらちらこちらを伺いながら、横になって歩き始めた。

 

ハニは叫んだ。

 

「謝れや!」

 

鼻の奥がつんとした。杉の木の匂いが深くなった。

 

「もう明日にせえって……」

 

顔の細い子が、横を向いて吐き捨てるように言い、

そのまま彼らは帰ってしまった。

 

ハニひとりだけ、家が近いのだ。

 

本堂の椅子に座って、しばらく呆然としていた。

 

家に帰らなければいけない。

山で秘密基地を作り、猟をして暮らしたり、

街に出てホームレスの仲間入りをしたりすることは出来ないのだ。

 

神社の山で見かける獣といえばイタチくらいのものだったし、

それもとても素早くて捕まえることなどとても出来ない。

 

街に出て、ゴミ箱から捨てられた弁当を拾うことも、

とても出来そうになかった。

 

家と、粉々に踏み砕かれた双子の弟に、

ハニはがんじがらめにされていた。

 

ハニはどうしても家に帰らなければならず、

それがこんなに恐ろしいのは、生まれて初めてのことだった。

 

家に帰れば、どんな罰を受けることになるのだろう。

 

いつも頭蓋骨の内側が締め付けられて気が狂いそうになる、

耳にキリを差し込むような、

あの母の説教を延々と浴びせかけられるのは確実だ。

 

それだけでも、ハニは消えて無くなりたかった。

 

しかし夕日が射し込む本堂でいくら背を曲げて俯いても、

身体が湯気になって、涼しくなった空気に溶けるようなことはなかった。

 

肉体のあるのが恨めしくて仕方がなかった。

この世に存在さえしていなければ、罰を受けることもないのだ。

 

ハニは薄暗い道をとぼとぼと、

できるだけゆっくり歩きながら家に帰った。

 

玄関に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。

 

「こんな時間までどうしてたの!」

 

「………………」

 

ハニは、今日起こった出来事を話す機械になったつもりで、

双子の弟の踏み砕かれたことを母に伝えた。

 

あった出来事を話して、それに応じた罰を受ける機械になったつもりで。

 

しかし母から紫色の炎がめらめらと立ち昇り始め、

のれんのビーズが溶けて茶色くしたたり落ちる頃には、

ハニはすっかりハニに戻ってしまっていた。

 

長い爪が肩に食い込んだ。

 

母の言葉は赤い弾丸の幽霊のように、

ハニの目玉を貫いて頭の内側をひっかき、

頭の中身をぐちゃぐちゃにしながら暴れ回った。

 

涙がぼろぼろ溢れて鼻水が出たときには、

小間切れにされた脳が鼻から垂れ落ちてきたのかと思った。

 

母の言葉で炎症を起こした脳は、頭の皮を破らんばかりに腫れ上がる。

 

耳から血が吹き出せば良いと思ったが、

頭の中の出血は、鼻血を出したときみたいに頭蓋骨にへばりついた。

 

ビーズのれんは8割がた焼け落ちた。

母の真上の天井は黒くなっていて、階段の手すりも焼け焦げている。

 

「顔洗ってきい!」

 

そう言われて解放されたときには、緊張の解けた脳が液体になって、

目玉ごと眼窩から流れ落ちるかと思った。

 

しかし鏡を見てみると、ハニはただ泣いているだけに過ぎず、

叩かれた頬っぺたが赤くなっているばかりだった。

 

どうしてこの肉体というものは、ハニの顔は、

起こった出来事を些細な物に見せかけようとするのだろう。

 

鼻から血塗れの脳みそを垂れ流していれば、

ハニの心もいくらかは慰められたはずなのだ。

 

言いつけられた通り、顔を洗って洗面所から出ると、

母はもうそこにはいなかった。

 

ハニは2階の自分の部屋に戻ろうと思い、

ふらふらと階段を昇りかけたのだが、

階段の上に見える物に気が付いて足を止めた。

 

黒い鞠がそこにはあった。

 

ハニはその場から一歩も動けなくなった。

 

先に動いたのは、双子の弟の方だった。

 

 

てん、

 

てん、

 

てん、

 

てん、

 

てん――。

 

 

階段を1段ずつ転がり落ちて、黒い鞠はハニの汚れた靴下に当たった。

 

台所では、母が怒りを込めて夕ご飯を作っている。

 

2階の方で、書斎の重たい扉が開く音がする。

 

足下に転がる双子の弟に、ハニは目をやった。

リビングのドアの、すりガラスから差す光で、

網状になった廊下の影と、その黒い鞠はひとつに重なっていた。

 

こいつは、すぐに壊れるやわな体で、

ハニの側からずっと離れないのだろう。

 

大人になって、いつか死んでしまうまで、

ハニの生活に、べったりとのしかかってくるに違いない。

 

ハニは憎しみを込めて、その爆発を抑えながら、

つま先でそうっと黒い鞠を小突いた。

双子の弟は、廊下の壁に音もなくぶつかって転がった。

 

それきり、何も起こりはしない。

 

ハニは屈んで黒い鞠を拾い上げると、自分の部屋へ続く階段を昇った。

2階の廊下で父と鉢合わせたが、特に何も言われなかった。